― 自己紹介―
私は、23歳の時からアメリカンBARを経営し、それからキャバクラから保育園等、今までに15事業を全て金武町のみで開業し、チャレンジしてきました。
その間4回の廃業をし、失敗を経験しています。
共通して失敗する時は、「自分一人で考え、自分一人で決定し、行動している時です」その時々に必ず、家族、スタッフ、友達のアドバイスや忠告があるのに、私自身の独りよがりの自信を勘違いして、その人たちの話を聴いていませんでした。
そんな失敗を続けている中での妻との会話で気づきました。
「家族のため、スタッフの生活のため、もっと稼いで生活を良くしていこう」「おれは、やると決めたらやる」そんなスタンスで夢を語る場面での時でした。
妻が言いました。「ひーとー。一人で走ってなんね~。後ろを見てごらん。私だけだよ、ついてきているのは。」
「大変だよ~、私一人なのは。支えきれなくなるかもよ。そろそろ気づかんと~。旦那だからついてきてるからね~。チャレンジする行動には尊敬しているだけ、限界来たら知らんよ~」と真剣な顔で言われました。
私は、離婚を突き付けられる怖さや妻にあきれられる怖さを感じ、自分とよく話をすることになりました。
支えてくれる人がいるから時間がつくれる。
支えてくれる人がいるから振り返ることができる。
支えてくれる人がいるから前に進める。
一人では何も成し遂げられない、支えてくれる人がいるからできると気づかされました。
経営全般がうまくいかず危機が迫っている時期がありました。
私は、いままでの事業を振り返り、お金だけではないんじゃないか?これまでの時間の使い方はどうだったのかと自分と話し、「何のために仕事をしてきた?何のために生きている?」を考え続けました。
その自分との時間の中で、やりたい仕事は、「教育だ」と気づきました。それから保育園事業をやりたいと、家族としっかり話をしました。そうです、家族が住む自宅を保育園にする計画なので家族の生活環境が変わってしまうからです。
父・妻・子どもと本当に話を聴き、その問題点、起こる環境の変化、夢、将来の展望を話し合い、今の「金武こどもみらい園」があります。
そして、社会福祉士にチャレンジし取得しました。今は金武こどもみらい園で働く保育士の先生、スタッフの話を聴き、やりたい事を全員一緒にチャレンジをして、子どもたちの笑顔であふれる保育園になっています。
今では、保育園事業や観光協会を通して、リーダーとして支えてくれる人の話を聴きちゃんと向き合いチャレンジしていく。
みんなで前に進んで行く適材適所それぞれの役割を伸ばしつつ引っぱっていくリーダーを目指しています。
今はハッキリと解ります。私もあなたも、私たちは、今の状況よりも良くしようと考えています。
私は、その声を私の想いと共に前に進みたい。
私たちは、私たちひとりひとりが主役になれる町をつくれます。
一緒にやらせてください。私たちの「いいね、金武町。」作りを。
よろしくお願いします。
山川むねひと
― 経歴―
1989 | 12歳 | 金武小学校 卒業 |
1992 | 15歳 | 金武中学校 卒業(44期) |
1995 | 18歳 | 宜野座高校 卒業 |
2000 | 23歳 | 沖縄国際大学 商経学部商学科 卒業 |
2000 | 23歳 | BARイーストコースト 経営 |
2008 | 31歳 | リカモカカフェ 共同経営 |
2009 | 32歳 | きんメインテナンス株式会社 取締役 |
2014 | 37歳 | 金武こどもみらい園(保育園 園長) |
2016 | 39歳 | 琉球リハビリテーション学園 社会福祉学科 卒業 |
2016 | 39歳 | スカイキン株式会社 取締役 |
地域での活動、役職など
2005 | 28歳 | 金武町商工会青年部 部長 金武町商工会 理事 |
2009 | 32歳 | 沖縄県商工会青年部 会長 |
2010 | 33歳 | 金武町社交飲食業組合 組合長 |
2015 | 38歳 | 金武中学校PTA 総務部長 |
2016 | 39歳 | 金武中学校男子バレーボール部 外部コーチ |
2020 | 43歳 | 第5次金武町総合計画後期基本計画審議会 会長 |
2020 | 43歳 | 金武町観光協会 会長 |
趣味
- 読書 月に3~8冊程度読んでいる。
- ゲームをすること、特に三国志や信長の野望、ドラゴンクエストが好き
- ペットと遊ぶこと、保育園の愛犬トトと遊ぶ
- YOUTUBEで勉強 。動画コンテンツよく見ます。
特技
- いつも金武町が良くなることを考えられる
- 金武町の子どもたちの成長を楽しめる
- 何にでもチャレンジすること
尊敬する人
當山久三、坂本龍馬、アドラー、妻
座右の銘
「できるか、できないかではない。やるか、やらないかだ。」
「いざ行かむ 吾等の家は五大州 誠一つの 金武世界石」
愛読書
ワンピース、キングダム、蒼天航路、7つの習慣、嫌われる勇気
山川ヒストリー ~出生から青年期まで~
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出生時
1977年(昭和52年)4月1日に生まれた私。なんと生まれた国は、ドイツミュンヘン。
父(宗男)と母(静香)が結婚してドイツで暮らしている時に授かったらしい。
父がドイツ留学をしていた。
私が生まれたことで沖縄に帰省。
ドイツには1歳も経たないうちに離れたらしく、私はまったくもってドイツの記憶がない。
幼稚園時
金武幼稚園から悪さばかりやっていた。
新開地に実家があったためゲームセンターデビューは割かし早い方だったと思う。
親に迷惑をかけっぱなしで、ゲームセンターによく行った。
何回見つかったか分からないぐらい。怒られた記憶がある。
父に一回「そんなにゲームがしたいなら、このお金(5千円ぐらいだった記憶)でやってこい」と、父は脅しで言ったらしいが。
私は見事に全部使って帰ってきたと、後から父から聞いたエピソードがある。
小学校
小学1年生の時、一番大好きだった祖父(山川宗英)が亡くなった。
本当に優しくていつも膝の上に私は乗っていた。
相変わらずの悪ガキで、ブルービーチに友達と一緒に遊びに行きコーラやハンバーガー、ホッドドッグを食べていた。
母も父も仕事で忙しく、当時の私は寂しかったのだと思う。もちろん勉強の方は、まったくできない。
そんな私の転換期は、金武小学校5年生の時、掛け算九九もまだ覚えていないぐらい勉強をしない私に、家庭教師として安富祖寿子先生を付けてくれた。
寿子先生のおかげで初めて漢字のテストを100点取ることができた。「やったー。がんばった」と凄い達成感を感じたのを覚えている。
その時期から親に叱られるようなことはしなくなって、少年野球「飛龍」、小学校サッカーもやり始めたり、勉強の方も徐々に成果が出るようになった。
中学・高校時代
金武中学校では、サッカー部そしてテニス部と所属した。
その時の先生だった。ロッキー先生、孝実先生が校長先生で金武中に戻ってきた時には、一瞬で当時にタイムスリップする感じが心地よかった。
この時の友達が今もモアイ仲間や、いつ会っても昔に戻れる大切な同級生達で、私の人生の中で「金武町好き」の大きな礎になっているのは確かである。本当に感謝している。
クセは恐ろしく強いが大好きである。
宜野座高校では、バレーボール部に所属し3年間やり通した。
成績はまあまあ。ただし、勉強はできる方だったと思う。
小学校から考えれば物凄い成長である。
大学時代
沖縄国際大学で一番メリットがあったのが妻と出会えたことである。
商経学部商学科としてビジネスの勉強、週末は金武町に帰り実家の稼業Barの手伝いをした。
本で学ぶビジネス。その学んだことを週末に実践し、売り上げが上がる楽しさ。ビジネスの楽しさを体感できた。
当時の母が私の意見や、やりたい事をくみ取ってくれたことに感謝している。
その経験があり、大学卒業とほぼ同時に結婚そして、親から家業を引き継ぎ経営者になった。
金武町商工会青年部
商工会青年部は、地域振興とビジネスの質の向上のため地域に根付いた45歳までの若い青年の組織である。
私は、23歳から所属し21年間、地域振興と地域の活動を自分の人生の一部として行うことができた。その活動を通して地域愛を確立し、政治家を目指すきっかけになった。
利害関係のない人たちが金武町の為にと20歳~45歳という年の差のなかでの組織運営をしている。
組織の代表となる難しさ、時間をさいて地域の為に動いてくれる人への感謝を学ぶことができた。
先輩から後輩、あるいはお客様そして金武町の皆様から、地域で働く大切さや地域と関わる楽しさを、私は金武町商工会青年部部長、そして沖縄県商工会青年部会長をさせて頂いた中で学べたことを感謝している。